忘却と欠けた魂
ここには…誰もいない。
ただ俺のみが自分の存在を確認している。
俺…と言ったが自分の性別さえも分からない。五感が効かないこの暗闇の空間では、確かめる事さえも出来ない。
強大な戒めが体を包んでいる。そのせいで思考は働かない。
ただ一つだけ覚えている願いがある。それだけは戒めに屈せず、他の思いを犠牲にしても残り続けている。
今にも忘れそうな最後の願い…それを祈った。
「目覚めたい。」
そうして願いを忘れ、祈りを思い出しまた願う。
「早く…」
そうした繰り返しを俺は何回繰り返してきたのだろうか。何千…何万……?
繰り返される忘却と祈りが永遠を通り過ぎた頃だ。
一つのしずくが落ち、深遠だった暗闇に波紋を広げた。
ここが水の中だった事に気付く。
「…………」
誰かが何かを呟いている。俺の他にも誰かがここに存在している。
その時初めて他の存在に気付いた。そして戒めは解かれ始め、停止していた思考も回り始めた。
思い出さなければならない。何かを…何か強い意志を俺は抱えていたはずだ…
何か…
その時だった。水流が渦を巻き俺の体を押し縮めた。水圧が俺の体を押しつぶす。
もう少しで何かが思い出せそうだった。しかし…
俺の意識は水の流れに押し上げられ、目覚めの世界へと吹き飛ばされた。
「目覚めの…時…」
激流とも言える渦の中、俺は確かに二つの眼を見た。
この長い日々。俺を戒めていた者の存在を眼の辺りにした。
「おまえ…はっ…!!」
「…………………」
体が痛い。まるで錆びているようだ。
最初に俺が感じたのはそれだった。
長い間眠り続けていた。何の根拠も無いがそう思える。
記憶が無い…名前さえも思い出せない。何故今ここに俺がいるのか、ここは何処なのか…
まずは目を開けなければならない。誰かに会わなければならない。
目を開けようと力を入れた。しかし張り付いたように開かない。まるで粘土で固められたようだ。
そんなに長い間俺は眠っていたのだろうか。
そうしている内に嗅覚も冴えてきた。湿っぽい布の匂いと何とも言われぬ汚臭が漂っていた。
自分から出ているものなのか…それとも別な何かなのか…目を開けるのが少しだけ怖かったがいつまでもこうしている訳にはいかない。
パリっと言う小さい音と痛みが走り、ゆっくりと俺の目は開いた。
久しく使っていなかったからなのか、ぼんやりとしてよく見えない。ただ色は分かる茶色と黒が入り混じった天井。窓からは少しばかりの光が差し込んでいる。
屋内…しかし上等な出来ではない。だんだんとハッキリしてくる視界…ここは土蔵のような所だった。
俺は遂に軋む体を何とか動かし、そこから起き上がった。
やはり俺は土蔵のような場所に寝かされいたようだ。
しかし体は埃にまみれ、服は風化してどのようなものだったかさえ分からない。
俺は寝かされていたベットのような場所から降りた。
その時だった………
十分に体が起きた瞬間、俺はある存在に気付いた。俺以外の存在…
俺が寝ていたすぐ傍に横たわる人間。
それはもう人間の形を残したモノと言ってもいいかもしれない。人間は…死体だった…
白骨化した体に、僅かばかりの肉片と思われるものがこびり付いている。服装からその人が女性だという事が分かった…
「うぁああ!!」
目覚めて初めて発した声…それは驚きと恐怖の叫び声だった。
俺は何か大変な事に巻き込まれたのかもしれない。とにかくここを出て人間に会わなければ…
恐怖に任せて、俺は土蔵の窓を蹴破り外へ出た。
一体何だって言うんだ?一体俺は誰なんだ?
何一つ思い出せない。何一つ覚えのあるものが目に映らない。
目に映るのは、突き抜けるような青空と…そして…大きく古ぼけた屋敷。どうやら俺はこの大きな屋敷の土蔵にいたようだ。
屋敷を見ながら…俺は走った。あの土蔵から少しでも遠くへ行くために。安心出来る場所に行くために…
だが走っても…走っても…走っても…
屋敷は延々と続いている。外に出ようにも高い塀がそれを阻んでいる。
だが仮にこの屋敷から出ても、一体何処に行こうと言うのだ?
一体何処へ?
安心出来る場所とは…
体が痛い。ずっと動いてなかった体を急に動かしたからだろうか。今にも四肢が千切れそうな痛みだ。
そうして…俺は足をもつらせて転んだ。
後ろを振り返るとまだあの土蔵が見える。大分走ったつもりだったが、幾らも移動してなどいなかった。
荒げる息を落ち着かせ、俺は必死で頭を働かせた。何かを思いだ無ければならない。
何でもいい。どんなつまらない事でもいい。
眠る前に食べたもの、会った人、見た景色、嗅いだ匂い。
「何か…何か思い出せないのか?」
ダメだ…ダメだダメだ!!
頭の何処を除いても、濃い霧がかかったように何も思い出せない。真っ白だ。
いや!!最初から記憶など無いのかもしれない。
恐怖が沸きあがってきた。あらゆる想像が駆け巡った。
自分は人工的に作られた人間なのではないか?
それともとんでもなくリアリティのある悪夢を見ているのではないか?
ガサっという物音に気付いた。俺は物音の方向に振り返った。
半狂乱していたのかもしれない。それが人間だったとしたら飛び掛ろうとまで心構えしていた。
しかし、俺はその存在を確かめる前に倒れた。何か首筋に鋭い痛みを感じ体の自由が利かなくなったからだ。
薄れる意識の中で花の香りと、女の影を見たような気がした。
次の目覚めはすぐにやってきた。
今回は先ほどとは違い、ちゃんとベットに寝かされているようだ。それもかなり高級感のあるベットだ。
最初に目に映った天井にもきらびやかな装飾が施されており、この部屋…この家が豪邸だという事に気付いた。
衣服も取り替えられてちゃんとした寝巻きに替えられている。
「…俺はっ。」
頭がはっきりしてきて飛び上がった。さっき見た死体、そして不気味な屋敷、そして謎の人影。
一体ここは何処で、俺は誰なんだ?
やっぱりダメだ。何も思い出せない。
その時…
ドアの向こうに人の気配を感じ、俺は本能的に身構えた。
身構えた所で武器も戦う気力も無い。なのに体が勝手に強張っている。
もしここが倒れる前に見た屋敷なら…あの土蔵の死体と関わっている可能性がある。それは危険だ。殺されてしまうかもしれない。
右手が腰の脇に来ているのに気付いた。何もない空間に右手が自然と向かっていたのだ。
右手は物欲しそうに二三度握り締めている。ここには何かがあったような気がした。俺の腰に何かがあったんだ。根拠も無くそう確信した。
「失礼します。」
俺がそうこうしている内に、ドアは容赦なく開いた。透き通るような声がして、女が一人部屋へと入ってきた。
女は若かった。髪が長く顔立ちも良く美しい。風貌からこの家の使用人のようだ。
女…ならば身構える必要もない。そもそもこうして丁寧にベットで寝かされているのだから警戒する必要など無いはずだ。
それにもう疲れた。誰でもいい、誰かと話がしたい。
俺は警戒を解いて素直にこの女に応じる事にした。
「お目覚めになられましたか?」
女はそう言う前に少し驚いた顔をしたように見えた。今はにっこりと微笑んではいるがその前に一瞬だけ、ありえない事が起きた!!そういう顔をしていた。
俺の考えすぎだと言えばそれまでだが、自分の存在が分からない以上、人目はどうしても気になる。俺はあるいわ目覚めるべき者ではないのか?
「あなたは一体?」
「申し遅れました。私は十条家の使用人、屑桐 誉(くずきり ほまれ)と申します。」
やはり使用人か。見たところ俺に危害を加えるつもりは無さそうだ。
「俺も名乗るのが礼儀だが自分の事が分からない。そればかりか記憶が全くないんだ。誉さん、俺の事を知らないか?」
俺がそういうと誉は驚いた顔してから、悲しんだ表情へと変わった。やはり俺を知っているのか…
「まさか!?記憶をなくされてしまったのですね?」
「あぁ、何一つ覚えていない。何か知っている事があれば教えてくれないか。」
「…はい。貴方はこの家の…十条家のご子息、十条 辰彦(じゅうじょう たつひこ)様です。1ヶ月前、ご両親と交通事故にあわれ重傷を負いずっと意識を…」
…俺がこの家の子供…
交通事故で寝たきりに…?
いや…おかしい。俺はこのベットに寝る前別な所で目覚めたのだ。妖しい土蔵で白骨化した死体にもあった。そして謎の人物に気絶させられたのだ。
「待ってくれ。俺は本当にここで一ヶ月もの間眠っていたのか?」
「はい。何か気にかかる点でもありますでしょうか?」
「あぁ…実は別な場所で目覚めた記憶があるんだ。それもつい最近…1時間とかそんなぐらい前に…。」
「…記憶の混乱でしょう。恐れながら夢を見ていたのではないでしょうか?」
夢…?いや…あれは夢では無かった。あのかび臭さや体の痛み、絶対に夢ではない。
これ以上の詮索は止めておこう。まだ誉について全てを把握した訳ではない。
「両親と言ったが交通事故の後どうなったんだ?」
「…その…大変申し上げにくいのですが。」
もうこの世にはいないか。ある程度予想はしていたのと、両親の記憶が全く無かったので、俺はさほど動じなかった。
いつか記憶を取り戻したら物凄く悲しむのだろうな…などと考えていた。
「そうか。残念だった。もう少し俺の事を教えてくれないか?俺は一体何歳なんだ?」
「はい。辰彦様は16歳になられ、県立の高校に通っております。この十条家には私と姉の二人の使用人と、一人の庭師が働かせて貰っています。」
「誉さんの歳は幾つなんだ?ずいぶん若く見えるけど。」
「私は今年17になりました。辰彦様と同じ高校へ通わせていただいています。」
「それって大変じゃない?こんな広い屋敷の世話をしながら高校へ通っているなんて。」
「いいえ、私の家は代々十条家に仕える家柄。それに私家事や料理は好きなので大丈夫です。」
話す内に、誉の表情は段々と緩み。警戒する必要は全く無くなった。
土蔵で見た死体はきっと誉とは何の関係もない。今は早く辰彦としての情報を得る事が大事だ。謎や違和感はすぐに解消されるものではない。少しづつ分かっていけばいい。
「頼りにしているよ。さっそくで済まないが水をもらえるか?何分長い事眠っていたらしく胃に何かを入れてやりたい。」
「かしこまりました…」
しばらくして、誉は水とお粥を持って部屋に戻ってきた。
米のいい匂いが部屋に広がって、1ヶ月ぶりの食欲がこみ上げてきた。
「お粥を作ってきました。急いで作ったので軽く味付けしただけですが、お待たすると申し訳ないと思いまして。」
使用人か…身の回りの世話をしてくれるのはありがたい。両親が死んで天涯孤独だとしたらこうはいかないだろう。
記憶を無くした寂しさも相まって、誉がとても輝いて見えた。実際善い人なのだし、悪い事ではない。
「いや、逆にシンプルなほうが胃に優しいよ。ありがとう。」
礼を言うと、誉はにっこりと微笑んでお粥をレンゲですくい俺の口元まで運んできた。
「え?いや、誉。さすがにそれは大丈夫だ。自分で出来る。」
「あら、そうですか。それは…少し残念です。」
誉は残念という言葉だけ俺に聞かれまいと小さく放った。それがどういう意味なのか俺には少しばかり理解し難い。
とりあえず水を一口飲んだ。
喉を伝い水が胃へと流れ込む。染み渡るような感覚は、いままで眠っていた体の機能を隅々まで動かしたような気がした。
一口だけ飲むつもりだった水は瞬く間に無くなってしまった。
俺がコップをおくと、誉が容器にいれてあった水をコップに注いだ。
続いてお粥。今出来立てのお粥からは甘い米の匂いと、少しばかりのゆずの香りが湯気と共に立ち上っている。
レンゲを使い口への運んだ。
適度な柔らかさとしっかりとした米の歯ごたえ。今の俺にはぴったりの料理だ。
飲み込んだ後はさわやかなゆずの香りが鼻を通った。
今この瞬間だけは記憶喪失の不安など何処かへ飛んでいってしまった。
「美味しいよ誉。料理が得意なんだな?」
「あら…そんな事はありませんわ。ですが辰彦様に褒めていただけるのはとても嬉しいです。」
そうしてお粥を食べ終わり、誉が持ってきてくれたお茶をすすっていた時だ。
誉のシルエットに何かしらの衝撃が走った。頭の中で何かが彷彿する。
この形…影…あの時倒れる前に見た…?
いや、何でもない。きっと混乱しているんだ。
「辰彦様?」
不意の誉の声に、俺は少々驚いて返事を返した。
「ん、なんだい?」
「お風呂の準備が出来ています。よろしければ行ってこられては?」
「…そうだな。入ってこようか。」
「ええ。浴場は部屋を出て左の突き当たりです。私は着替えの準備をいたしますので。」
そう言って誉は部屋を出て行った。
誉無しで家を歩いて大丈夫なんだろうか?いや、俺はここの住人だ、大丈夫だろう。
体を起こして俺は浴場へと向かった。
まだ体は本調子ではなく、節々が軋むように痛い。
ずっと動かしていなかったからか。
風呂だな。風呂風呂風呂。
風呂に入れば体は癒えて何かを思い出す…かもしれない。
「…ん?」
浴場に行く途中で、俺は人の気配を感じて窓の外を見た。
誉と同じ服を来た女が庭の手入れをしている。
誉が言っていた姉だろうか?それにしては雰囲気が違う…なんというか暗い。注意深く見ていなければ存在にすら気付かない。
せっかくだから声をかけよう。顔合わせをしていない人間と同じ家に暮らすのは気分が悪い。
「おっ…」
”おーい”などと、ベタな呼びかけをしようと声を出したのだが、俺の存在に気付いたのかその子は道具を片付けて何処かへ行ってしまった。
消して俺のほうを見てはいない。俺に気付かれず、あくまで偶発的に移動した…かのように思わせているように見えた。
俺を避けている?
まぁ仕方ないか。兄弟だからといって必ずしも似ている訳ではない。
誉が愛想良く振舞うなら、姉は人付き合いが苦手なのかもしれない。
何かきっかけがあればその内話せるさ…
浴場の入り口はまるで温泉宿の大浴場だった。大きな屋敷だからといって自宅に大浴場があるなんて…
俺は恐る恐る浴場のドアを開けた。
脱衣所…デカイ…
これはもう大浴場の匂いがプンプンする。およそ10人は余裕で入れる脱衣所だ。すると浴場のデカさも倍の2乗π
「やはり…」
浴場のドアを開けるとそこには湯煙ドン 大浴場がドン
これは驚いた。そこらの温泉宿より上等な大浴場だった。
これで温泉だったらもう…
脇を見るとリウマチ、腰痛、疲労回復の看板が…
さすがに記憶喪失の効果はないか…
「ふぃ〜〜」
湯につかると、まるで体が溶けるような気持ちだった。
がんじがらめに巻きつけられた鎖が一気に解かれ、固まっていた細胞一つ一つが動きだ出す。そんなイメージが頭に沸いてきた。
胃を満たし、お湯につかり、俺は目覚めて始めての安らぎに身を委ねる。
「………」
とりあえずの欲求を満たすと、抱えていた数々の謎が頭を巡った。
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